






個人が趣味で「石臼」を造るのとはわけが違う。

とりあえず「そばがき」にしてみたが「みよし」のもつソバの味が口中に広がり喉元を過ぎてから強烈な甘味が反芻されるが如く湧き出て来る。完璧だ。


自分で育てた「ソバ」を自分で1から目立てをした石臼で挽き、蕎麦がきにし、更には自分の手で「ソバ粉100%」で打ち上げその場でゆがいて食べる。
これ以上の「蕎麦」が存在するのならばお目に掛かりたい。正に至極の「蕎麦」となった。
まぁ、正直。ここまでを一日足らずでやってのけた刺客も、こちらの意図を汲み快く「出張」を許した
「みよしそばの里」そして、何よりとんでもない「石臼」から平均を取り、ベースをしっかりと出し、あとの諸作をし易くしてくれた『石臼のいしたに』に感謝しかない。
に、しても「みよしそばの里」が送り込んできた
大丸京都店にやって来た。



ある日、食事に来られていた男性二人が「少しお話がありまして」と呼ばれた。
「市と商工会主催で『亀岡牛ハンバーグ・カレーコンテスト』を開催するのですが何とか参加してもらえないか?」と、言う依頼であった。
要綱を見ると「原価800円以内・売価2,000円まで」とある。
恒に「赤字覚悟の価格設定」で営業しているので「亀牛使って、800-2000はないだろう?」と思ってしまった。いくら、対象商品が「ハンバーグとカレー」であってもその設定は牛を育てている畜産家、店舗、そして顧客のすべてを「バカ」にしているとしか思えなかった。食べる側にすれば「安い」に越したことはない。確かにメニュー的には「ミンチ」と「端材」を使い・・・と言う趣旨だろうが、それで「おもしろい」のか?
提供する店の顧客の財布事情もある、総体的に「安価」な物が売れ筋なのも解る。コロナ禍で低迷する亀岡市内の飲食店を盛り上げよう。と、いう気持ちもありがたい。
しかし、この金額は逆に参加店舗を絞り込む結果にしかなっていないのではないか。だから、商工会にも観光協会にも属さない愚店にまで「参加依頼」しなければならないのではないのか?「800-2000を取っ払ってもらえれば参加させてもらいますよ」と言うと「それなら出てもらえるんですね!?」と捨て台詞的に言って帰られた。
それは当然であろう。その前に思わず「800-2000って頭、おかしいやろ!?」と言ったのだから。3日程して「規制をなくしました」と電話があった。
その3日間の間に愚店の(スパイス・アドバイザー)を受け持って頂いている『カワムラケンジ』氏に連絡を入れ愚店の方向性【スジ肉と希少部位のヌカ漬けひと口カツのインドスパイスカレー】の説明をし、スパイスの試作を依頼した。試食品を造って持ってきて頂いた時にはこちらのイメージの9割ほどの出来具合で、詰めなければならなかったのは誰も考えたことも無ければ食べた事も無い「亀岡牛のヌカ漬けカツレツ」との段差。
これをバリアフリーにする事で『拓朗亭らしさ』が演出され、《亀岡牛伽里酔霧譚》が出来上がった。仲間内に話すと「インドやろ?牛使うのか?」と怪訝な顔をされたが「牛を食べないヒンドゥー教徒はインド全体のたかだか95%に過ぎない。その他大勢のムガール料理では普通に牛も食べてる」と言うと大笑いされた。
ついでに記しておくのだが本来「亀岡牛伽里酔霧譚」のカリーはどの道当て字で在り、酔夢譚は「酔っ払いの夢話」であるわけで「霧の中のお伽の里で出会った酔っぱらってて覚えてないようなカレーの話」と、こちらは100%抽象的イメージと勢いだけのネーミングになった。
あいにく『コロナ禍』の影響でコンテストは開催時期未定の延期となってしまったが、仕入れや仕込み準備は進んでいたのでそのまま1月22日よりメニュウ・オンされた。
まさに「無国籍蕎麦会席」にふさわしい逸品として定着するのではなかろうか。
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インド・ムガール系のカレーソースは選ばれた「パウダースパイス」と刺激的な「ホールスパイス」のWスタンダードから繰り出す強烈なカウンターパンチが次の「ひとくち」を急がせる仕上がりとなっており、そのソウルチックな辛さを見事なまでにチューニングさせているのが「亀岡牛」のスジ肉と甘みのあるイチボウ、ミスジ、モモなどの特筆すべき高級肉。これだけなら「亀岡」にも沢山「カレー」
を提供する店が在るのですから何の面白みもなく、わざわざ「蕎麦屋モドキ」が「カレー」を造る必然性はないわけです。
求めたものは当然の事ながら『拓朗亭らしさ!!』
withカワムラ ケンジ(スーパー・スパイスアドバイザー)
トッピングされる2種の「亀岡牛」は『ヌカ漬け』にし「ひとくちコートレット」でこんがりと焼き上げた極めて「拓朗亭」らしい提供方法となり、そのまま食べると「亀牛」の甘み、香ばしさに加えヌカの香りが舌の上で暴走し始め、スパイスパンチのカレーソースと食べると見事にチュンアップされた「インド」が現れる。
・・・・はずです。 いや、これはあくまでも個人的感想と希望的観測ですのでご自分でお確かめください。
保育園の通園路にあった「饅頭屋」さんにまつわる話
去年の12月に「クリスマスの想ひで」を書いた。その文中の保育園の通園路にあった「饅頭屋」さんなのだが、一度もそこの「饅頭」を食べる事無く時が過ぎ、いつの間にか饅頭屋は無くなり「寿司屋」が出来ていた。
で、そこの大将一家は当時住んでいた家の隣に引っ越して来て住んでおられた。一時期は羽振りが良く店の2階を「炉端焼き」に改装されてこれも当時亀岡では珍しくて大層繁盛していた。その頃、すでに社会人になっていたので酒は飲まないが何度かその「炉端」には行った覚えがある。
隣人でもあるので挨拶くらいはかわすうちにわかってきた。
「人柄」が客を呼んでいる。
だが、大将はとにかく「ブッキラボウ」で「偏屈」でなにより「お人よし」な方で、実にオモシロイ。流行っていた「店」もいつの間にか人の手に渡り、噂では仲間内で手を出した事業がうまく行かなかったとか、
誰だかの保証人になって「店」を取られてしまったとかと耳にした。隣の家にしばらく大工さんが出はいりしておられたが、改装してそこで小さな寿司屋を始められた。
調べたわけではないが「得意客」と言うか「仲間」と言うかは別として2~30人の客が入れ替わり立ち代わりで毎夜
酒を酌み交わし、静かに騒いで楽しそうにしていた。顧客層はほとんどが「自営業」の人達のようで横繋がりで成り立っている店だ。或る夜、遅くに妙に表が騒がしくどうも喧嘩をしているらしい。
仲間内の喧嘩であれば他の者が「やめろ、やめろ」と止めに入るだろうがそれは聞えない。聞こえてくるのは柄の良くない言葉遣いの「そっち系」の人の一方的な怒鳴り声で最後に「ゴラァ~!!」で終わった。翌日大将の顔には見事なアオタンが出来ていて災難であったのが一目でわかる。
ウチの母親が「大丈夫やったんかぁ?」と訊ねると「一発殴ったら気が済んだんか帰りよった」と言っていた。
後々この騒動の真相を本人から聞いたら「他の客に迷惑が掛かりそうやったから会計を5倍くらいにしたら殴られたけどもう来ることは無いやろ」との事だった。それから更に時は過ぎ、南つつじヶ丘に「拓朗亭」を開店させると年に数度、隣の大将は家族を連れて来店してくれた。
大晦日の(当時の大晦日は深夜1時くらいまで営業していた)夜8時頃
「メシも食えてへんやろ、これやるから食え」
と、デカイ寿司桶にイッパイのチラシ寿司を持って「年越しそば」を食べに来られた。
ちょっと怪訝な顔をしたのだろう
「残りものでわるいけどなぁ」と付け加えられた。
それが2年続いた。或る時どうしても「そば寿司」を造らないとイケなくなり隣の大将に
「巻寿司作るのを見せて」と乗り込んだ事がある。
「アホかぁ、なんでそんなもんお前に見せやなあかんねん。見せもんちがうど」
と、ニコニコしながら寿司を巻く用意をし始めてくれる。
「巻けたら買って帰ります」
と言うと、またニコニコしながら
「アホやろ、せやから、なんでお前に売らなあかんねん」
と笑われた。のか、おこられたのだか・・・何故、寿司屋を始めたのか聞いたことがる。
「知ってるやろ? ウチのオヤジ」
「饅頭屋さんでしょ?」
そう、この大将あの「饅頭屋」さんの息子さんなのです。
「そうや、変わったオッサやったやろ?」
「クリスマスケーキ造ったはりましたもんね?」
「そうや、つくってよったなぁ。売りはせんかったけど。
ワシなぁ、子供の頃から『饅頭』大嫌いやったねん、なんでこんなもん造って売ってるんや?って思ってたわ。
大人になったら『こんなモンで酒、飲めへんのに』て、ハラがたってなぁ。寿司屋やったら朝からでも飲めるやろ?」
「それで、寿司屋?」
「他になんか要るか?寿司屋になるのに?」
「お前なんで調理の世界に首突っ込んだんや?」
「うまいモン食えるかなぁって」
「ほな一緒やんけ、飲むか、食うかの違いだけで何にも変わらへん。せやからオヤジが死ぬの待ってて『寿司屋』にしたったんや」
「けど、あのクリスマスケーキは保育園の行帰りに観て 『あこがれ』てたんやけどね」
「あの頃は亀岡に『ケーキ屋』なんてなかったからなぁ、せいぜい作れて太鼓饅頭(回転焼き)くらいやった」
「えっ、確かに無かったけどそれ、一緒にする?」
「一緒やんけ、甘いんやさかい」
この大将、それが酒のアテになるかどうかが食べ物の基準になっていて、ニコニコしながらそれを貫いて来た。或る時、うどん生地で「小豆島そうめん」風にして食べてもらった事がある。大将はニコニコしながら
「お前、これ造ってワシんとこに持ってきてくれ」
と大層気に入って何度か持って行ったことがある。
当時は熟成麺ではなくガチの「讃岐うどん」を造っていたので「生うどん」だと早くても12分くらいはゆがかなければならなかったので
「そうめん風」にすれば3分くらいでゆがけたから気短かの大将にはちょうどよかったのであろう。むかしながらの職人気質で筋が一本通っていて頑固で偏屈でおもしろかった。
一度だけ
「なま蕎麦持ってきてくれへんか?」
と頼まれたことがあるが「それは無理だ」と断ったら
「お前が無理やと言うのんは無理なんやろうからこれ以上はいわへん」
と、あっさり下がられた。後で聞いたら
「職人が無理や言うてるモンは何言うても無理やろ」
とニコニコしていた。
職人と認めてもらえた事が妙にうれしかったのを覚えている。もうすでにこの世におられないが、いつか「饅頭屋やってたオヤジさんも、職人気質で筋が一本通っていて頑固で偏屈」
だったのか聞いてみたかった。
商品説明の文言は正規品と.全く同じ。育てた農家名も同じ。
これはと思い買い求めたが、やはり「別物」であった。
それでも値段はかなり高いので、決してまずくはないのだが、肉質や脂身の
甘みが全く違う。〆方はエトフェと呼ばれる「窒息方」なので薄っすら皮目にうっ血は見られるモノの正規品と比べると違いが歴然としている。「シャラン鴨」と呼ばれるフランス・ヴァンデ県シャランで育てられ、エトフェされた「ナント種の鴨」
20数年前には問題なく使えていたのだが、ヨーロッパに「鳥インフルエンザ」が蔓延し始めると輸入が止まってしまった。
そこから先は一進一退でようとして出荷されない。
バブルがハジケル以前は蕎麦屋も数件が仕入れ、商社には骨の付いていない
「フィレ」も常時ストックされていたのだが、景気が落ち込むと誰も使わなくなったのだろう「フィレ」でと注文するのが愚店だけになってしまった。
当然1回の注文量はふえてしまう。否、正確に言えば1回に運ばれてくる分を引き取ることになるので必然的に増える事になるのだが。で、ネットだと1パックから発注が出来るので、価格と文言で「質問」もせずに買ったのだが、届いた瞬間に「これはダメだ」となってしまった。
パッケージのどこにも1羽1羽に付けられるべきロットナンバーシールが
見当たらない。皮目の羽穴付近に見られるべきうっ血もさほどない。包丁で切ると、抵抗を感じる。
おそらくはシャランはシャランでも特定地域ではなくシャラン地区全体を指す「シャラン産」品種はバルバリー種だと思う。余り怒ってはいないし、ショップに文句を言う気もサラサラない。
おそらくは仕入先にごまかされたか何かであろう。
「シャラン鴨」と「シャラン産鴨」の違いが分からずに同じ扱いをしたのではないかと思う。
本当に怒っていないし、ショップに悪い評価を付ける気も無い。ただ評価は控えさせてもらったが、むしろ、感謝している。
これでネットではダメだ、量が増えても正規ルートで「これがシャラン鴨で、ビュルゴー家のナント鴨です」と言える鴨を仕入れる決断をさせてくれたのであるから。
「冬景色」と名付けられたその絵に一目惚れし、3日間通った。
そんな事は初めてで、自分でも不思議なのだが「もう一度観たい」
いや、「もう一度観て、眼に焼き付けておこう」と虜になってしまった。
絵は嘘みたいに全く描けない。
かけるのは「恥」くらいのもので美術の時間は苦痛でしかなかった。
それでも観るのは好きで機会があれば時々、街中のギャラリーで開催してる
会ったこともない方の個展を覗いたりしていた。
この「亀創展」も記憶が正しければ「第1回」から10年ほどは続けて拝見してきたはず。
最初の頃は亀岡駅前通りに在った「夢想庵」(?)と言う名の(確かあられ屋さんだったと思う)店の奥の小さなギャラリーで開催されていたと思う。通勤にJRを利用していた頃で早い目に家を出て
きっと「物知り顔」でわかりもしないのに適当にうなずいたりしてみていたのだろう。
通勤をしなくなったのと「夢想庵」が閉店したのとで「亀創展」とはすっかり疎遠になっていた。
それが、昨年、別の広い会場で催されていた大きな美術展に脚を運んだ際、同時開催されていた「亀創展」に間違えて入ってしまい、そこでこの絵に出逢ってしまった。
初め、単純な「感動」、次の日「悲しみ」、そして最後の日に「春への希望」と不思議な感覚に襲われ妄想が暴走し始める。
どんな方が描かれたのか?
パーソナルメニュウに使わせてもらえないだろうか?
お会いすることはできないだろうか?
この方が描かれた他の作品も見せてはもらえないだろうか?
1年待った。もしかしたらコロナ騒ぎで今年は開催されないかも…
と、夏ごろから不安を感じながら待った。
開催の案内をもらうと今度はあの方は出展されるだろうか?
もしかしたら出展されないのでは?
そして、お逢いする事が出来るだろうか?
何とか頼んで作品を使わせてもらえはしないだろうか?
妄想は暴走を繰り返し爆発寸前で、まるで「恋」を知らない少年のように
ただただ、胸の鼓動が・・・いや、年齢を考えると一度医者に行った方が良いのではなかろうか?
とも考えたりし、時を過ごした。
初日の早くに伺い受付の女性にイメージで造ったメニュウと名刺を預け、こちらの意図が伝わるかはわからないが、ともかくいつ来ればお逢いできるかを聞き出した。
丁度タイミングが合う時間帯に当番で来られることがわかると違うドキドキ感が出て来る。
笑ってしまうのだが、その作品にわかりやすく言えば「恋愛感情」に近いモノを感じていたのだろう。
火曜日に始まり土曜日までが短くもあり永くもあった。
ともかく、1枚の写真に収めた彼女が描かれた「絵」をメニュウに使わせていただきたい。
まずはそこから。
の、はずだった。
当日、うまくお会いすることが出来たのだが、話すうちに思いもしない事を彼女が口走った。
「私なんかの書く絵でよいのですか?」
『いやいや、だからこそ頼みにきているのですが・・・』
「気にいられたと聞いたので今日お持ちしていますのでお持ち帰りください」
『それはお預かりしても構わないということですか?』
「いいえ、差し上げます」
『・・・?。いいのですか?それこそ私などが頂いても?』
「はい、そのつもりでお持ちしましたので」
いや、うれしかったのですが、正直エライ事になったと頭の中はパニクッて冷静さは微塵もなくここから先、何を伝えたのか半分は定かではなく、おそらくそうとう厚かましい話を取り留めもなくぶちかまし、きっと彼女は困惑の真っ只中を彷徨っておられた事だろうと安易に察しが付くのです。
と、言うよりもほとんど変なオジサンがストーカーに成りかけているのではないかと不安をあたえてしまったかもしれない。
いえ、いえ、そうではなく、いや、そうなんですが、そうではなく。。。
もう何を言っているのだろう。と言う正に青春オンパレード。
冷静に考えるときっと「伝言ゲーム」が始まってしまい「メニュウに使わせてほしい」が「あの絵が欲しい」
と伝わったのではないかと思うのですが・・・
ともかくこの「冬景色」は今、拓朗亭の店内に飾られております。

Christmas Episode
その昔、保育園への通園路に饅頭屋さんが在りました。
一風変わった饅頭屋さんで何故か寒くなってくると店先のガラスの小部屋に、美味しそうな「ケーキ」が飾られるのです。
ケーキの上にはサンタクロースが飾られ、何かで造った大きなピンクと白いバラの花が添えられ保育園児には読める事の無い舶来語で何やら書いてあるチョコレートの板。
それがXmasケーキであろうが,いざなぎ景気であろうがそんな事はどうでもよくて、唯々日々「おいしそうなケーキ」にしばし足を止めて見とれるのでした。
当時は日本中がまだまだ貧乏で当然の事ながらそのような「クリスマスケーキ」どころか、「サンタの長靴」すら買ってももらえずですから、無論、「クリスマスプレゼント」と言う言葉など我が家の辞書には無かったのです。
サンタクロースがケーキを持ってきてくれた。
それが、12月の24日の夜だったのか、25日の夜だったのか定かでないのですが、夢見る保育園児に「クリスマスケーキ」を持ってきてくれたおばちゃんがいたのです。
結構遅い時間で8時くらいだったようにおぼえているのですが、
「遅うにごめんなぁ」と言って入ってきたそのおばちゃんは手に四角い箱を持っていて
「売れ残りで悪いんやけど子供さん、食べやはれんかぁ?」
と手渡してくれた。
「いやぁ、そんなん貰うてかまへんのんかぁ」
「かまへんねんけど早うたべてやぁ」
と言って帰って行かれた。
最初はそれが何の箱かさえもわからなかった。
ケーキがそのような箱に入っている事すら知らないでいたのだから。
開けるといつも「饅頭屋」の店先で見るケーキを小さくした(それでも21㎝程の大きさだったと思う)もので、上にはローソクで造った赤い服をきたサンタと何故か黄色い体に白い斑点模様の鹿のローソクとなんじゃらかんじゃらが乗っていた。
おいしかった。
甘くて、鼻をくすぐるような香りと口の中で溶けていくバタークリーム(もちろん当時はこれがバタークリームだとは知らずにいたけど)そしてふっわふわしたスポンジケーキ。
衝撃的な出来事だった。
残念だったのはサンタと鹿のローソクに火をつけられなかった事。
「やめとき」といわれた。
「停電した時使うの?」と聞いて笑われた。
「ローソクの匂いがケーキについたら食べられへんで」
と言われて我慢した。
そのサンタと鹿のローソクは実に7年近く私のおもちゃ箱の中に在ったのをおぼえている。
その翌年。
同じように同じケーキをまたもや貰った。
今度こそは「ローソクに火をつける」と言い張った。
「ひとつだけにしとき」と言って点けてもらったが確かにロウがたれると匂いがケーキに移って食べられなかった。
さて、そのサンタクロースのようなおばちゃんなのだが、近くに在った、当時は小さなスーパーの社長さんの奥さんで、想い出すと結構可愛がられていたのだと思う。
今は府内の各地に20数店舗の店を展開されている大きなスーパーだが奥さんは早くに亡くなられ、会長も数年前に他界された。
拓朗亭を開業してからも店には来られた事はなかったが、いつも顔を見ると
「あんた、よう、頑張ってるなぁ」と声を掛けて頂いていた。
それを受け継いだわけではないにしろ、現社長にも同じように声を掛けて頂く。
あの晩、クリスマスケーキをもらわなければ少し違う道に進んでいたかもしれない。
そして何も考えない保育園児はチカチカと灯りが点滅する「木」は一体どこにはえているのか気になって仕方がないのであった。
クリスマスツリーとケーキに最大の憧れを持ったまま大人に成り、ホテルの厨房に就職するとそこにはイベントとしての「クリスマスパーティー」が1シーズンに何回となく開かれ、「煙」報知機が鳴り響くほどにクラッカーが焚かれ、数時間の狂宴の後には跡形もなくきれいに固唾けられた大きな宴会場に小さなクリスマスツリーがかすかに点滅を繰り返し、一瞬前の喧騒が遠い昔にオーバーラップさせられると「祭りのあと」の寂しさをかみしめながら帰路に就く冬を何回か過ごしたのです。
今、拓朗亭は騒がしさから脱し、ご家族や気の合う仲間、
人生にとって大事な人と心行くまで食事を静かに楽しめる。
そんな時間を共有していただける空間を造り、4回目のXmasを迎えようとしています。
「特別メニュウだからと言って値段は上げない」それが拓朗亭からのプレゼント・・・。無国籍な料理と絶品蕎麦、奇想天外な天ぷらを存分にご賞味ください。
来年は文中に出てきた不思議な「饅頭屋」さんのお話が書ければと。
何故、今、蕎麦打ち教室なのか?
完全ではないが一時の「蕎麦打ちブーム」は下火となり、意気込んで入手された「蕎麦打ち道具」達は肩身を狭くして物置や部屋の片隅に追いやられ、断捨離などの浮き目にさらされた日にはヤフオク、メルカリ、とどのつまりは粗大ゴミ。
二度と日の目をみないよりはオ-クションがいくぶんましかと言ったとこ。...
そんな中、何故、今「蕎麦打ち教室」を開く気になったのか?
変わり者の拓朗亭だから。と、言えばそれまでの事。
それには幾つかの理由がある。
実は何回か「蕎麦打ち教室」の開催を依頼されたことがある。
しかし、プロを目指し、開業したいと言う明確な目標を持った人にしか、教えては来なかった。
こちらの年齢的な問題が大きかった。どうもこちらより長生きしている方達にモノをお教えするのは苦手だ。
相手がプロ志望なら容赦なくやらせて頂くが、そこらあたりが遣りにくい微妙な年齢だったから。
また、そのころ鳴り物入りかどうかはしらないが、 亀岡の某むらおこし的な店が、ガレリア主催、つまり「亀岡市主催」(ですよね?)で教室を開催しておられた。
まだ以前の店の時代だから遠い昔の話しではない。
ある日その教室からの帰りだと言う人が店に寄り
「本当にアンタが打ってる蕎麦はソバ粉100%か?」
と半分喧嘩腰で言って来られた。
「つなぎはどれくらい?」
とはよく言われるので慣れてはいたが
「必要がないのでつなぎはいれてませんが」
と言うと
「それはウソや!!ワシはたった今そこのガレリアで○○そばの蕎麦打ち教室で、そばは絶対に、ええか、絶対にソバ粉だけではつながらへんと教えてもらい、ほんで繋ぎを入れて打ったけど、それでもつながらへんかったんや!!そんなモンお前らがソバ粉だけで打ってつながるわけないわい。これだけ長いそばつくろと思うたら一杯つなぎ入れて打たなぁならへんのじゃ、人をだますな」
と捲し立てられた。いや、腹が立つより笑えてしまった。
「それは気の毒でしたね」
と訳のわからぬ返事をすると
「ソバ粉だけでは絶対につながらへんのはわかっとるんやからな」
と出て行かれた。(これ、レジ前で大きな声で言われたのですから明らかに名誉棄損にあたりますよ)そんな事を目と鼻のさきで教えているのかと思うとあきれはて苦情すら言って行く気にもならなかった。
(こちらも「名誉棄損」ですかね?)
ただ、なぜ知識も技術力もない方達がだいそれた事をノタマイ、平気で居られるのか不思議だった。
どうして「どうすればソバ粉だけで打てるのか」は突き止めようとしないのか、目の前にある「売上」にしか興味が湧かないのだろうか?
そんなことすら考えていた。
しかし、そこでそんな風に折角話されておられるものを否定しに行くのもめんどくさいので捨て置いた。
つながる、つながらないなどとそんなレベルの低い話で時間を浪費する気はサラサラない。
そこで使っているソバ粉がつながらないだけの事だから、食べられるか否かは別として、つながるように接着剤だろうがコンクリートだろうが好きに入れれば良いのにと思っていた。
ただ、いつか時間を造ってつながり易いソバ粉で「失敗しない生粉打ち」を世間に教えて差し上げればそれで良い。
と、思い時を過ごし、移転を機に今回の開催に向け準備に至った。
その下準備を少しずつ進めていた時、新たにその教室に絶対に追加しないとならないイベントが噴出した。
ある日来店されていた一組のグループのうちの一人の青年が
「覚えてはおられないと思いますが、昔、安詳小学校でそば打ちを世話になった者です」
と言われるではないか。
覚えがある。
六年生だったと思う。担任の先生方が店に訪ねて来られて
「生徒たちがソバを育て収穫し粉にして生徒たちで打って食べると言うのは出来ると思いますか?」
と聞かれた。
玄ソバさえあればあとはどうにでも出来る時代だったのと、何よりも面白そうだったので
「畑さえあればできますよ」
と答えたら話が進んだ。問題は刈り取りだけだったが何度か安詳小学校に通っている間に生徒たちが決して嫌々ではなく自発的にソバの面倒を見てくれていて益々面白くなって来た。
「刈取り作業」を何時すれば良いのか?そのタイミングを
「生徒さんたちに休み時間や放課後にゲーム感覚で実が黒くなり始めたら手で摘む」
と言う.荒技で回避させ正に「みんなの蕎麦」を育てた。
収穫出来た実は数キロしかなく学年全員が食べるとなれば麺にして数本である。
それでも、生徒達の眼はキラキラと輝きそれぞれの作業の達成感に溢れていた。
「楽しかったんですよ、あの授業は・・・」
青年はそう言い残して店を出ていった。
ところが、話はここで終わらない。
その時、店には少し年配のご婦人が二人おられて、青年の後ろ姿を目で追ってられた。何かしらあったのかなぁ、と思っていたらその方が
「私、その時、安詳で教員していて、ハッキリ覚えています」
と語り始められた。
そしてその授業が楽しく如何に生徒や教員達の心に残ったかも聞かせて頂いた。
ちいさな町の中での出来事。あっても不思議はないかもしれない。しかし、そこに何かしらの邂逅を、ゾクゾクしたものを感じずにはいられなかったのです。
.子供たちの「心」に確り残っているんだ。
それは、拓朗亭にとってグルメ雑誌で☆一つもらうより遥かに尊く、純粋でサンクチュアリ的な物でさえある気がしたのです。
嬉しかったですね。そうやって覚えていて店を訪ねて来てくれる当時の生徒さんの存在が。
少しの子供たちだけでも構わない
「親子で蕎麦打ちに挑戦」してもらい心に残る「夏休み」にできないものか!?
参加される方だけの挑戦ではなくハッキリと拓朗亭にとっての挑戦が決まった瞬間であった。
安詳小学校で拓朗亭のおっちゃんと一緒に「そば打ち」した生徒のみんな~!!
同窓会にもう一度「そば打ち」しないか~!?
ペコリ
先日夕刻、所要かあり車で出掛けた。
近くの中学校のクラブ活動からの帰りがけだったのだろう。一人の少女と小さな十字路で見合ってしまった。...
横断歩道も何もないホントに小さな交差点で前からも後続車も無かったので手で合図して先に渡らせてあげようとしたら。
あどけない顔で、ペコリと頭を下げてくれた。
それが、可愛いしぐさに見えたのだが、小走りにわたり終わるとこちらに向き直りまたペコリと頭を下げてくれた。
気持ちの優しい娘なのだなぁと車を走らせふとミラーを見るとその娘かもう一度こちらに向かってペコリと頭を下げているのが見えた。
これだけで、2日ほど気分が弾んだ。
全く見ず知らずな車に3度もお辞儀が出来るなんてどんなにキレイな魂を持っているのか?
引き返して確かめてみたい衝動に駈られたが、変質者扱いされても困るのでやめたが、キレイな「心」に触れれば浄化作用が働きもう少しマシな生活態度ですごせるだろうにと半ば自虐的な考えまで横切る。
それほどまでに少女の仕草は自然で微笑ましかった。
親御さんの躾や教えの部分も大きいのであろう。だとすればこの時代にあれだけの礼儀をしつけられる親御さんにも会ってみたいと思うのは、やはり愚僧がおかしいのだろうか。と、小さく成って行く少女を思った。
「三郷礼拝堂」(※1)と呼んだ店が在り、
そして「聖地黒姫」(※2)と呼んだ3軒の蕎麦屋が在った。「巡礼の旅に..……」と言えばこの3店を廻る事であった一昔前、年に何度となく足を運び、春は「夏を乗り切るチカラを」秋は「冬を乗り切る勇気を」もらう巡礼からはいつも感銘と刺激を受けていた。その「前橋大聖堂」と呼ぶ「会席そば 草庵」さんを12年振りに訪ねたのには、これからの愚店の重要戦力となり得る特殊な揚げ方で提供される「天婦羅」を愚店で「商品名」を変えて提供させていただきたくお願いにあがったのである。何を大層な!?と、思われるであろう。たかが「天婦羅に!!」
その通りだと思う。
「前から店で天婦羅揚げて提供してたやん」
はい。まさにその通りです。しかし、この度お願いに上がった「草庵」さんの天婦羅、商品名を「花衣」(はなごろも)と言うのですが。この「花衣」が「会席そば草庵」さんの手によって開発され「製法特許」をもっておられるから話が全て変わってくるのです。愚僧が以前「前橋」まであしげく通ったのは紛れもなくこの「花衣」をコピーするためでし た。
材料はわかるのですが、同じモノには決してならない。似て非なる..……と言う言葉がありますが、これは「似もせず、非なるモノ」にしかならないのです。幾度食べてもわからない。
12年前に「絶対にコピー出来るまで草庵さんには来ない」と誓いをたてる始末。しかし、4年前に閃いた作業が遂に不可能を可能にさせたのです。
それはもう、小躍りしたいくらいに嬉しかったですね。でも、その興奮が冷めると「製法特許」の壁が待ち受けている事実は「なんとかコピーを」と考えた時点から付いて回っていたわけです。何処の誰かも知らなければ、名前も店名もバレていなければ、とも考えるのですが「似て非なるモノ」を平気で売っている連中と大同小異であり、それは決して進 むべき「道」ではない。「それは許可出来ない」
その一言で終わるのを覚悟での今回の「前橋行き」でした。それはもう「お嬢さんを嫁に下さい」のレベルではなく、弟子でもない人間が、
10数年前に何度か唐突に現れて天婦羅を食べて帰るだけで氏素性は違うお客さまから教えられ初めて「あの人、蕎麦屋だったの?」などと言う輩が「草庵」さんの製法特許を持つ「花衣」を商品名は変えるとしても「使わせてもらいたい」というのは「お嬢さんと不倫させてください」と言いに行っているようなもので何度このまま帰ろうかと思ったことか..……いや、何度となく「お伺いに行く予定」をキャンセルさせてきたか..……
今回ばかりは意を決して「いま、いかなければ永久に行けない」と 言い聞かせ(御主人も大女将さんもそれなりのご高齢で、すでに一線を退かれておられたのですが「出来れば話を聞いて頂きたい」と電話をしておいたので大女将さんに対応していただきました)勇気を振り絞りお願いしたところ
なぜ、不定休なのか?
過去31年間定休日を「火曜日」として営業を続けてきたのですが
「休みが同じなので来れない」
と言うお話を度々耳に致しました。
これは愚店が他店に対しても同じ事で同じ火曜日を定休日とされている店には
なかなか行けないのが現状で、これを打破するには顧客サイドからは少し複雑なシステムであっても
「不定休対応」が割と理にかなうのではないかと実験的に導入に踏み切ったものです。
安定すれば〇月は〇曜日、△月は△曜日と年間を通じておしらせできるのではないかと
考えております。